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【もののけ姫感想&批評】これは人と自然の物語ではなく、命によって意志と向き合う物語【11092文字】

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序文

少し前の話になりますが、劇場で再上映していた『もののけ姫』を観てきました。自分の年齢的に劇場でやっていた頃は楽しむのが難しかったのでこういうspecialな催しは嬉しいですね。

元々好きだった作品で、最後に観た時と比べて色んな視点を獲得する事が出来ると思ったので備忘録兼批評・レビューとして記事にする事にしました。

公開から時間が経っている上にジブリ作品という事で作品外の様々な情報や言及が存在しているとは思いますが、本記事では"作品内で提示される情報のみ"を元に批評を行います。

簡単に言うと「監督(や別の人)がああ言ってたからこう」「制作秘話にはこういう裏設定が書いてあったよ」「実は元ネタはこれだからそれは違う」の類はクソ喰らえ、筆者と作品以外の要素は介在させない。という事です。

また、ネタバレなんかもゴリゴリにあると思うので基本的には視聴済みの方向けの記事となります。

 

例えばこんな視点からのもののけ姫

死と隣り合った生は生足りえない

本作は「自然と人間の対立」や「自然との共存の難しさ」「形はどうあれ人間は最終的には自然には敵わない」と言った自然vs人間の形を取った物語ではありません。

中身でやっている事はむしろ人vs人(と同等の知性や心を持った生物達)、もっと言えば勝手に己の中に敵を定めてしまった者達のお話であったように思います。

皆自分の利益を追求し居場所を守る為に発展させる為に奮闘し、それを邪魔する者を敵として処理しようとする者達。

そうした生きるのに必要なものを求める血生臭い戦いの中で、皮肉にもタタリという「無条件に死に至る呪い」を生んでしまいました

タタリは恨み、憎しみ、怒りと言った負の感情を振り撒きながら、対立する相手に破滅やまた同様にタタリを与えるので、一度生まれてしまえば返し返されで死の輪廻が発生するような仕組みになっています。

つまりタタリは死そのものと言っても大袈裟ではなく、この世界では生を求めて我武者羅に敵を作るのでは結局回り回って自分達に死が返ってくるかもしれない、という事ですね。実際にタタリで死に至る者もいます。

つまり「そのような生き方」は死に等しい。純然たる生では無い。という事が作中では示されていました。

そんなタタリの死の渦に主人公たるアシタカは運悪く巻き込まれ、そして物語を経て断ち切りました。

と言う事は彼の在り方は回り回って死が迫ってくるような死に等しい生ではなく、真っすぐな純然たる生だったと言えます。

じゃあ具体的にアシタカの在り方って?この物語で示された「純然たる生」って?

そんなアシタカラヴな視点からの批評記事です。

結論から言ってしまうと「自分から湧き出る意志そのものを命を以て肯定する」というのが最も大きな軸だと考えます。

 

アシタカの眼に映った眩しい生

アシタカはあらゆるシーンで芯がゴリゴリに強く迷いません。守るべきものを守り、その為の腕も立つ。しかし悪しきを挫く正義ヒーローでは決してありませんでした。

と言うのも、彼の中には一切の敵が存在しません。いつも「守りたいもの」が在るだけです。

そもそもこの物語の中で明確に悪としての側面しか持たない者はおらず、サン、モロ、エボシ、その他にも多くの登場人物は目的を果たす為に、守るべきものを守る為に自分の中に敵を作ってそれを倒さんと動いていましたが、その中でアシタカともう1人だけは敵という存在を作らずに奔走し、または戦っていました。彼にとってはタタリの呪いを断つ事こそが重要なので、森の神々を敵に回してタタラ場を発展させるのも、エボシを敵に回して神々の森を守るのもあまり意味がありません。敵を作る意味が薄かったのです。

これは呪いを受けた事で自分の短期的な損得や生死を超越した視点、つまり「この立場ならこうしなきゃいけない」「こうしなきゃ生きられない」と言った生における必要性を排除し、物事を見て「自分自身の価値観ではこうしたい」という視点を獲得したのが大きいように思います。

この視点こそがヒイ様の言う所の「曇り無い眼で見定める」という事なのでしょう。

そしてタタリの呪いの発生源たる西の国での出来事を見定めた結果彼は真理に気づきました。「呪いは生への渇望から生まれた恨み、怒り、憎しみの輪廻なのだ」と。つまり仮に自分だけが呪いを断つ事が出来ても、また新たな呪いはここで生み出されるのだと。

別によくない?とりあえず自分の呪いが解ければ、後の事はさ……。

もしかしたら旅立つ時のアシタカならそういう考えもあったかもしれませんが、彼は道中で曇り無い眼を通してたくさんの生の意志を目の当たりにした事で自分自身が本当に守りたいものを知る事になりました。 

 

 

なんら特別でも無い牛飼いの帰りを人々が喜んだ事

 

森を焼き、呪いを直接生み出したエボシが身寄りの無い者達を集めて働く場所や居場所までをも作り出している事

 

自身も呪いを受けた身だと話す瀕死の人物が、あらゆるものを呪って苦しい生でも、それでも生きたかったと語った事

 

タタラを踏む女性達の活力に溢れた姿

 

そしてサンという、人間と敵対してしまって尚凛と生きている人間を見つけた事

 

 

ヒイ様は「西の国で何か不吉な事が起きている」と語ったが、これらの一体どこに不吉なんて要素があろうか?世界は生の意志で満ち満ちているじゃないか。

森、人間それぞれの手によって死に至らしめるタタリが生まれているのは事実ですが、どちらにも絶対的な悪意があるわけではなく、皆必死に生きているだけでした。

そんな「命ある限り精一杯に生を謳歌したい」という深層的な意志の数々は、既に死の世界に足を踏み入れているアシタカからはさも尊く映った事でしょう。

そんな皆の生の意志を見定めた事によってアシタカの目的、アシタカ自身がしたいと思う事に「タタリの輪廻そのものを断つ」が追加されました

これは言い換えれば他の登場人物達の多くが行っている「自分の存命や発展の為に敵を作ってそれを滅ぼし、恨みを作り出す生」を「互いの生の意志を認め合い、共に歩む生」に改めて回る。という目的とも言えます。 

 

「みんな見ろ! これがこの身の内に巣くう憎しみの姿だ! 肉を腐らせ死を呼び寄せる呪いだ! これ以上憎しみに身を委ねるな!」

 

 

──アシタカ/『もののけ姫

 

アシタカの「生きろ」とは

アシタカの目的が「呪いを解く事」「タタリの死の輪廻を断つ事」の2つに増えた事を確認しましたが、これらの目的だけでは説明をつけづらい行動がいくつかあります。それを解決してくれる存在、もとい第3の目的がサンですね。

とは言えアシタカはサンへの恋慕だけで動いていたわけではありません。もしそうなら彼女の味方となり、エボシ率いるタタラ場を殺さないまでも鎮静化させて森に手出しが難しい状況にし、その後で共に少ない命を楽しむかあるいは共に呪いを断つ術を探して生きればいいのです。

しかしアシタカはそうはせず、終始森と人間とが自主的に共に在る道を探していました。

ではアシタカはサンとどうしたかったのか、あるいはサンにどうなって欲しかったのでしょうか。

「お前撃たれたのか。死ぬのか。死ぬ前に答えろ。何故私の邪魔をした!」

「そなたを、死なせたくなかった」

「死などこわいもんか!人間を追い払う為なら命など要らぬ!」

「わかっている。最初に会った時から」

「その喉切り裂いて二度と無駄口が叩けぬようにしてやる!」

「生きろ……」

「まだ言うか! 人間の指図は受けぬ!」

「そなたは美しい……」

 

 

サン-アシタカ──『もののけ姫

 

この時アシタカが言い放った「生きろ」とはただ「命在れ」という意味よりも、「まだ貴女は貴女自身の価値観で動いては居ない。命を以て貴女として物事を見、選択するべきだ」というような意味合いでした。

と言うのも、サンは基本的に自分の意志で行動を選択していません。

エボシとサンの対決をアシタカが止めた際に双方には夜叉が宿っているという旨の発言をしましたが、これは「目的の為なら何が起きても、それこそタタリを生んでもいい、そういうものだ。」と言わんばかりの、生への渇望からくる我武者羅な心持ちを指したのでしょう。

そしてその心持ちは"生の必要性"に駆られている心持ちであり、アシタカのように自分自身の価値観で判断している状態では無いと言えます。

加えてサンが森の神の一柱と見える山犬と共に行動をしていた事や人間に決して好意的では無かった事、タタラ場の人間達も山犬を敵対視していた事など様々な事情からサンが自分の意志で人間よりも山犬を取った訳ではない、という事を察していたのでしょう。

この娘にはきっと選択肢など提示され無かったはずで、それなのに人間と争わねばならない事になっている。

本人は望んでそうしたと言うかもしれないが山犬に拾われていなければ?そもそも人間に捨てられていなければどうだっただろう?それでも人里離れて山犬と共に生きるなんて選択をしただろうか?

仮に同じ選択をしたとしても、「そうせざるを得なかった」のと「明確な自分の価値観でそうした」のでは「自分自身はどうしたかったのか?」という意志の有無の違いがありますよね。

また、サンがアシタカを救命した時もそれはサンが望んでそうしたわけではありません。

 

「シシ神様がお前を生かした。だから助ける」

 

 

──サン/『もののけ姫

 

シシ神に判断を委ね、それに乗っかってアシタカを救ったに過ぎず、サン自身はどうしたかったのか?が示されていません。森の主たるシシ神が生かすなら生かし、殺すならそのまま見殺す。山犬に育てられ、森と共に在る者としては正しい判断なのでしょう。

翻ってアシタカは同じシーンで、猪に食い殺されてもおかしくない局面にあっても自分の意志(最期を伝えたい。それによって食べられたとしても村を救ったという私の意志による選択の結果だから良いのだ)を明示しています。

 

「ナゴの守にとどめを刺したのは私だ。村を襲ったタタリ神を私はやむなく殺した。大きな猪神だった。これが証だ。あるいはこの呪いをシシ神が解いてくれぬかとこの地へ来た。だが、シシ神はキズは癒しても痣は消してくれなかった。呪いが我が身を食い尽くすまで生きろと」

 

「待って乙事主様、この人は食べちゃダメ」

 

「山犬の姫、構わない。ナゴの守の最期を伝えたいから」

 

──アシタカ・サン/『もののけ姫

 

アシタカはサン自身に、自分がどういう選択をするどういう人間なのかを知って欲しかったのです。そして成り行き任せの運命に歩まされる生では無く、自分自身の意志で彩った生を歩んで欲しかった。

どうしてこの勇敢で気高い娘が、自分自身の意志や価値観すらも知らず盲目的な夜叉として生き夜叉として死ぬ事があろうか?そんな気持ちを込めて「生きろ」と言い放ち、そして彼女に入れ込んだのでは思います。

夜叉にとってアシタカは何者だったんだろうか?

本作にはアシタカの持つ「曇り無い眼」とは真逆の性質とも言える夜叉を宿した者達がたくさん居ました。

アシタカが夜叉と称したエボシにサン、他にも象徴的な登場人物だと、人間を殺す為に海を渡ってやってきたという猪達も憎しみや怒りに眼が曇りこの状態になってしまっていますね。

ナゴの守が没したという事象に対してどうにか感情の矛先を用意せんと、もっと言えば悪役を立てんと山犬にケチを付けシシ神にケチを付け、最終的にナゴの守や山に手を下した人間を悪役として復讐をするのが彼らの目的でした。

乙事主の「我が一族悉く滅ぶとも、人間に思い知らせてやる」というセリフが、先のサンの「人間を追い払う為なら命など要らぬ」というセリフと類似している点からもこの2つは対応している事が覗え、更に踏み込むならこの乙事主の末路はもしかしたらサン(を含む夜叉達)が辿っていた末路かもしれないよという示唆にも思えますね。

しかし実際はアシタカが大きく介入した夜叉達は大きくその結末から外れています。

サンは当初人間側についているように映ったアシタカを認めず、相容れる事はありませんでした。どころか人間だというだけで排除の様相を呈していました。

しかし物語終盤にはアシタカ個人にとは言え人間に好意を示すまでに(!)至りました。

そしてアシタカを敵とも味方とも思わぬ様子で、強いて言えば世を知らぬ小童としか見ていなかったエボシも、最後にはアシタカを認め、礼を言いたいと謝意を示していましたね。

最終的な事実だけを並べれば……アシタカが茶々を入れたせいでシシ神の森は神々の住まう森から野山のような若い山に変貌し、タタラ場は崩壊。モロや多くの人間も死んでしまい、総合的に見るとどちらか片方が滅びるよりも悪い結果になってるんじゃないか?森とタタラ場両方から袋叩きにされてもおかしくなくない……?

そんな気すらしますが、アシタカの死に至る呪いは痣だけを残して消え去り、アシタカは皆に認められていました。

一体彼の何が皆の琴線に触れたのでしょうか。

簡潔に言ってしまえば、身も蓋もないですが「純然たる生」を身を以て教えてくれた、

という事なのでしょう。

「森を切り開いてより豊かに」「森を荒らす人間を倒さねば」命を危険に晒してまでそう言った森-人間間の争いかき回して奔走していたアシタカは、夜叉達の眼から見るときっと意味がわからなかった。こちらに味方するでも無いあちらに味方するでも無く目的も不明瞭でやたらと首を突っ込む青年を疎ましく思っていた事と思います。

しかし森が生まれ変わってタタラ場が落ち、それまで夜叉達が生の為に必死に他の何を犠牲にしても求めていたものが瓦解した事で、ようやくアシタカが必死にしようしていた事や訴えていた事とその一貫性を理解したのでしょう。

そしてそれらはアシタカの持つ生への尊敬と憧憬の意志無しでは決して為し得ない事でした。

デイダラボッチの泥が首を探していた時も、自分の存命を優先するならばジコ坊の言う通り夜明けまで逃げて泥が消えるのを待てばいいのですから。泥に触れたら死ぬと分かっていても、その泥に囲まれても尚、シシ神の首は人間の手であるべき所に還したいというアシタカの一連の行動は「力及ばず神殺しは止められなくて、森は死んで、自分ももうじき死ぬけれど、それでも森と人間とは共に在れる生であって欲しい」という強烈な彼自身の意志を感じさせるには十分過ぎる程の行動です。

 

「命あるだけでは十分じゃない。貴方自身が何かを大切に思う意志あってこその生なのだ。

そしてそれは、貴方が敵だと思い込んでいる相手も」

 

アシタカの行動によってそんな言葉無き言葉が夜叉達に伝わったのでしょう。

 

「朝陽よ、出でよー!」

「桶を開けろ!」

「わからんヤツだな。もう手遅れだ」

「アシタカ、人間に話したって無駄だ」

「人の手で返したい」

「……ええい! どうなっても知らんぞ!」

「シシ神よ!首をお返しする!鎮まり給えー!」

 

──ジコ坊・サン・アシタカ/『もののけ姫

 

サンはアシタカを好きだと言いつつもこれまで通り山で暮らし、アシタカはタタラ場でサンの嫌いな人間達暮らす事となり、二人は好き合っているにも関わらず離れ離れになっています。

でもそれで良いのです。これは妥協点であると言う意味ではありません。これこそが最善なのです。

サンは、「人間達から守るべきものはもう無いけれど(つまり今敵対する必要性自体は無い相手だけれど)、それでも自分の価値観から人間は許せない。でも、人間であるアシタカが好きな気持ちも私の価値観から来る気持ちだ」と自分の意志を明確に示しています。

これはまさしくアシタカがサンにそうあって欲しいと願った生き方で、作中の死生観に基づいても「死と混じり合っていない純然たる生」だと言えます。であれば一緒に暮らせるかどうかなんて言うのは些末な問題。「お互いに自分自身の価値観を尊重して居場所を決めた上で、その場所が相手と同じでなかったとしてもあなたを好きな事は変わらないという」自分の意志を大前提として好意を認め合っているのですから、まさしく「共に生きる」が達成されていると言えます。

エボシも同様、元は国崩しの為により豊かにと動いていましたが最後には「ここを良い村にしよう」と、森との共存か、そうで無かったとしても「目的の為に敵を倒す」から「皆と共に生きる」に思考がシフトしたように見えます。元々身寄りの無い者達を引き取って居場所を作っていたような人ですから、きっと人に優しく活気ある村になる事でしょう。

 

自分はここで○○をしないといけないんだ。何故ならそう決まっているから。そうする必要があるから。

ではなく

自分自身は何がしたいのか?どこに居たいのか?

その意志を生によって肯定せよ!

そんな痛烈な人生賛美が『もののけ姫』であったと考えます。

 

 

タタリの呪いの渦中から外れた者達

自分の中の本題は大体書き終えてしまったので、そこで語りたかったけど語れなかった3者について少し書きたいよ書かせてよのコーナーです。

何とか頑張って絡めようとしたんですけどね。上手く纏まりませんでした……。

タタリの仕組みはもののけ姫の世界の仕組みなので厳密には全ての登場人物が呪いの内側なのですが、この項タイトルとしては「アシタカを直接的に取り巻くタタリの外側」という意味合いで扱っています。

 

何故モロはサンを救えなかったのか

モロは、敢えて役割を誤認させるようなかなり嫌らしいポジションに居たように思います。サンと同様に森を守らんとする夜叉であったように見せかけて、その実どちらかというとアシタカに近い立場に居ました。

物語序盤にエボシの手でナゴの守と同様の毒礫を撃ち込まれているモロは、物こそ違えど近い内に死を迎えるアシタカと状況は同じです。そしてアシタカ同様に自分が残りの命で何をしたいのか見定めていたのでしょう。

故にアシタカの苦しみを最も理解し、その志の強さを(善悪はともかく)認めていた者でもあります。

 

つらいか? そこから飛び降りれば簡単にケリが着くぞ。体力が戻れば痣も暴れ出す」

「わたしは何日も眠っていたようだな。夢現にあの娘に世話になったのを覚えている」

「お前がひと声でも呻き声をあげれば噛み殺してやったものを、惜しい事をした」

「美しい森だ。乙事主はまだ動いていないのか」

「穴に戻れ小僧。お前には聞こえまい。猪共に食い荒らされる森の悲鳴が。……私はここで朽ちていく身体と森の悲鳴に耳を傾けながらあの女を待っている。あいつの頭を噛み砕く瞬間を夢見ながら……」

 

 

──モロ・アシタカ/『もののけ姫

 

 

モロが最期に果たしたい事は「エボシを倒す事」だと語っています。これだけではパッと見サンやエボシ、猪達と同じ夜叉が宿る者に見えますが、厳密にはこれ自体が目的で無かった事がその後明らかになっていますね。

タタリ神となった乙事主がシシ神の湖に辿り着いた際、乙事主のタタリに飲まれたサンを命を振り絞って救出しています。仮に森自体を守る為に森の敵であるエボシを倒したいのであればこれは不合理な行動です。

 

「やれやれ……。あの女の為に残しておいた最後の力なのに……」

 

「わたしの娘を返せ」

 

──モロ/『もののけ姫

 

モロの目的は「サンを救う事」でした。これは今サンが危ないからという意味合いでは無く、サンの人生を救う為にサンの住処である森を守る為にエボシを倒そうとしていたのでしょう。

先に挙げたモロとアシタカの会話の続きでも、モロはサンについて語っています。

 

「モロ。森と人間が争わずに済む道は無いのか? 本当にもう止められないのか?」

「人間共が集まっている。彼奴らの火がじきにここにも届くだろう」

「サンをどうする気だ! あの子も道連れにするつもりか!」

「如何にも人間らしい手前勝手な考えだな。サンは我が一族の娘だ。森と生き、森が死ぬ時は共に滅びる」

「あの子を解き放て! あの子は人間だぞ!」

「黙れ小僧! お前にあの娘の不幸が癒せるのか。森を侵した人間が我が牙を逃れる為に投げてよこした赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ哀れで醜い可愛い我が娘だ。お前にサンが救えるか!」

「わからぬ。だが、共に生きる事は出来る」

 

──モロ・アシタカ/『もののけ姫

 

また、別のシーンではサンに別の生き方を提示してもいます。

 

 

「母さん、ここでお別れです。私、乙事主様の目になりに行きます。あの煙に困っているはずだから……」

「それでいいよ。お前にはあの若者と生きる道もあるのだが……。」

 

──サン・モロ/『もののけ姫

 

モロは常に、サンがより幸福にあれと願っていた事が覗えます。

森と共に滅びるにしろ、エボシを討ち取って森が生き残るにしろ、森を離れて(自分と同じ死の苦しみを抱きつつも強い意志を抱いた)アシタカと生きるにしろ、幸せにあれと、そう願っていました。

しかし結果的にはモロの想定していたどの幸福とも違う形でサンは救われましたね。

それはモロが作中で示される2つの勘違いをしていた為だと考えられます。

1つ目は「人間として、または山犬としての幸福」しか存在しないと思い込んでいた点です。

人間として生きるのであれば森を離れてアシタカと共に。

山犬として生きるのであれば人間に脅かされる事なく生きられるように、或いは森と共に滅びるとしても我らと最期まで。

そんな「人間なら、山犬なら」と言った幸福の形をモロの中で決めてしまい、「サンなら」と言う彼女自身の幸福の形が見えていなかったのです。

2つ目は「誰かがサンを救わねば」と思っていた点です。

この物語で提示される純然たる生(=アシタカの生き方)は誰かに示され誰かに齎されるものではありません。自分自身で自分の意志を見つめてどうしたいのかを見極める事で初めて為されるものです。

モロは愛しい我が娘を何とか幸せにしてやらねばと思うあまりに、アシタカと同じ状況でありながらもそれが見えていませんでした。

翻ってアシタカはモロの「サンが救えるか?」という問いに対して「わからない。だが共に生きる事は出来る」と返答しています。

アシタカの目的や言動と照らし合わせると、「結局こちらから何をしてもそれで救われたと思うかどうかは彼女自身の問題で、もっと言えば一時的に救ったとしてもその後の人生までずっと救われたと思わせ続ける事までは誰も保証出来ない。だから彼女を救えるかはわからない。でも、彼女が自分自身の価値観で生きるのであればそれに寄り添って共に生きる事は出来るし、寄り添って生きるのであれば幸福にする意志が私にはある。」と言う意味合いの発言でしょう。

サンへの愛はアシタカよりもモロの方が深かったでしょうが、同じ状況に置かれた両者のそんな差がサンの命運を分けたように思います。

サンの実質母親に向かってさらっとこんな事を宣言するアシタカ、やっぱりかっちょよ~~~~~。

ジコ坊に与えられた役割

多くの登場人物は敵を作っていた。そのように冒頭で書きました。

その「多く」から外れる人物の1人がジコ坊です。

彼は(少なくとも作中では)何の利益も得ず、また、敵を作っていた方々のような損失も無かったように描写されます。

守るべきものを持たず最終目的も持たず、エボシを利用し侍を利用し金銭なのか地位なのか、そんな社会的な報酬だけを見据えて暗躍していたように見えました。しかしそんな金銭だの地位だのも別に本人としても命を賭してまで守るべきものでは無いようで、そもそも生にも死にもそこまで頓着がありません。

命あるなら率先して死のうとは思わんが、特別何を為したいでも無い。余り深く考えず流れに任せて必死じゃなくともそれなりに生き、死ぬ時は死に、しかし人間の欲について言及する事が多かった彼なので、きっと自分の中に渦巻く大きな欲望に従っての行動をしていただけの事と思います。

 

「人はいずれ死ぬ。遅いか早いかだけだ。」

 

──ジコ坊/『もののけ姫

 

でもそれはそれで生き方としていいのでしょう。そんな人間は作中で見ても大勢いるし、更に言えば我々が生きている世界は彼らが生きている世界よりも社会化が進んでいるのだからそんな人間はありふれている。普通だ。ただしアシタカのような強い意志ある人物とぶつかる事になった時、得るものは何も無いと知れ。

そんなやや風刺的な役割を持っていたように感じました。

 

「いやぁー参った参った。馬鹿には勝てん」

 

──ジコ坊/『もののけ姫

 

 シシ神の存在は余りにも美しい。無駄が無い。

シシ神は人為を超越した生殺与奪権を持っており、自然環境という意味では勿論自然の摂理(生と死)という意味でも「自然」の象徴と言えます。

デイダラボッチとなった時は森人間問わず命を吸い取る存在として扱われ、シシ神としてもタタリ神となった乙事主の命を吸い取っていました。

しかし死に至るアシタカの呪いを癒したのもデイダラボッチ(シシ神)でしたね。そして一度力尽き、首だけになったモロにエボシの腕を噛み千切る刹那の命を与えたのも

つまりこの2者だけが事実上死んでいる状態から命を与えられています。ではこの2者は何が特別だったのでしょうか?

 

「シシ神様は死にはしないよ、命そのものだから。生と死2つとも持っているもの。……私に生きろと言ってくれた」

 

──アシタカ/『もののけ姫

 

ここまででも少し触れていましたが、このセリフが解答をそのまま示していますね。シシ神はアシタカと同様に、モロにも「生きろ」と言ったのでしょう。モロの項で説明したように、この2者は夜叉では無く「自分自身は何をしたいか」で行動していました。

つまり「命そのものと言える存在が『夜叉ではない純然たる生の意志』を肯定した」事になり、繰り返しになりますがまさしく「意志を命によって肯定する」という作品テーマをそのまま表していると言えます。

あとがき

おわりです。大体わかってる話だったはWという方もそんな見方もあるのね~という方も楽しんで頂けてたら幸いでありんす。

批評自体が久々&思ったより文字数が嵩んでしまったので乱文気味で読みづらかったかもしれませんが、書いてる側としては非常に楽しい記事でした。

書いたテーマと上手く接続できず、これ以上付け足すとさすがに冗長かな?と思って書きませんでしたが、カヤ→アシタカ→サンと渡った玉の小刀の話やコダマの話なんかも本当はしたかったですね。

作品外形の話をすると、改めて音楽がめちゃつよ~~~って感じでした。映画館で観たからというのもあるのでしょうが、アシタカが村を発つ際の劇伴「旅立ち-西へ-」やシシ神に首を返した後に流れる「アシタカとサン」など、物語の視聴体験をより良いものに押し上げてくれるものばかりで圧倒されてました。サントラ買っちゃおうかなあ。

ジブリ作品はネット配信などもやっておらず、こういう機会でも無ければ高品質のものを視聴する方法はBDを借りてくるとか、CMとかカット挟まるけど金曜ロードショーで観るとかそのくらいしかありませんが、もし何かの機会で観る事があれば「ふ~ん名前は忘れたけどあの記事書いたヤツが言いたかったのはこれかな~」とか、逆に「全然ちゃうやんw」とか、何かしらこの記事で感じた事を手元に置いて視聴して貰えたら幸いです。

あと次観る時はイヤホンかヘッドホンを絶対にして欲しい。いや石の洞窟みたいなとこでモロとアシタカが話すシーンの前後だけでもいい。これはマジのお得情報。

サンのな、寝息がな、聞こえる……………………。